阪神淡路大震災から29年~経験した者として未来ある子どもたちへの想い~

この度の令和6年能登半島地震で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
被害を受けられた皆様の安全と、1日でも早く平穏な戻られますことを心よりお祈り申し上げます。

子どもたちの未来と夢を応援する塾
『来夢塾』
塾ちょー武知です☆

今日は1月17日。
1月17日といえば…
忘れてはならない
1995(平成7)年1月17日午前5時46分に起きた…

『阪神・淡路大震災』

正式名称は
『平成7年(1995年)兵庫県南部地震』

塾ちょーはその当時
大学4年生、23歳の時でした。

塾ちょーはその時は、大阪市東淀川区に住んでいました。
私の住まいは震度4だったので、崩れることはなかったのですが
その日、その時間のことは、よ~く覚えています。

大阪で一人暮らしをしていて
まぁ大学生の一人暮らしなので、寝ている時はベッドじゃなく、こたつで寝ていました。
テレビも点けたままで。

そしたら、横揺れかと思ったら『ドドドッ』と縦揺れも感じ
真っ暗でテレビの灯りだけで
ローカル情報番組が流れてたけど、事態は一変!

『危ないから窓を開けて下さい!』
『ガスは切っていますか!』

とても怖くて、テレビの情報番組をしているアナウンサーの言う通りにした記憶があります。
その時はまだ真っ暗で。

でも日が昇り、明るくなったところ、テレビに映るのは
神戸の凄い光景。。。

あらゆるところで炎を上げ、火事が止まらない!

家屋ばかりか、ビルも倒壊!
その上。。。
衝撃の画像でした!

高速道路が!

衝撃的な絵ですよね!
そして!

バスが宙づり状態!

色んな光景を目にすることになるとは。

当時は神戸にたくさん大学の同級生がいたので
その後塾ちょーは原チャリ乗って、いや、押して(道路がすごかったので)、必要物資を運んだり
被災した同級生を家に泊めたりした、学生最後の3カ月。

それでも困ったのは
最初、電話がつながらなくなったことです。
当時、スマホなんかまだしも、携帯電話も普及していない
家の電話が必要だった時代
どこにも誰にもつながらなくなったのは、とても怖かった!

このために、大阪で就職するか徳島に帰るか決め兼ねていた塾ちょーは
徳島に帰ることにしました。
塾ちょーにとっては、やはり家族も大事だったので。

そしてあれから29年。

今年に入っていきなりの能登半島地震もあり
東日本大震災のときも含めて、たくさんの大地震がありました。
徳島では南海トラフ巨大地震が起きるときが近づいています。

阪神淡路大震災を経験している者として
地震が起きるたび、1.17が来るたびに思うこと。

『自分のしたいようにして、自分の生き方を見つけて人生を全うしよう!』

塾ちょーは、誰かの下について仕事をするのが苦手です。
会社員になったこともあるけど
理不尽だと思うことがあれば、結構伝えてけんかになったりして
その仕事を辞めたりしてきました。
まぁ、塾ちょーの20代30代前半って、理不尽な会社って、いっぱいあったからね笑

そんなのに無理に付き合うことはない!
上から色々言われて生きていくのは、自分の人生には必要ない!
そこで、回りまわってきたけど
30代半ば近くになってやっと
『未来ある子どもたちのために』
と、塾人としての仕事を見つけることができました!

今はまだ来夢塾もできて1年10カ月
3月1日に2周年
完全なる個人の塾経営としては、まだまだひよっこ。

それでも
この仕事って
死ぬまで続けられる仕事だし
そうしていたい
まだ80年は生きるつもりでいるので笑

現在52歳の塾ちょーですが
この色々あった半生を子どもたちに伝えていき
『塾ちょーの話を聞いて、これからも頑張ろうと思って、自分の生き方を見つけます!』
と言ってくれる子がたくさんできる、そんな塾にしていきます!

ちょっと人生論…真面目に言い過ぎた(笑)

徳島県公立高校入試一般入試まで『48日』!
育成型・連携型選抜入試まで『20日』!
阿南高専学力選抜入試まで『25日』!
阿南高専推薦選抜入試・合格発表まで『1日』1月18日合格発表!
令和6年度大学入学共通テストまで『0日』終了!

ということでぇ…
本日のブログ、以上!

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この記事を書いた人

武知 史人のアバター 武知 史人 来夢塾 塾長

地元徳島の子どもたちに、自分の経験も伝え、徳島の子たちが未来の世界で活躍する人材になるのを夢見て、約15年で何百人もの子どもたちを教えてきた実績のもと、自分も進化しながら精進していく所存です。『子どもたちの未来と夢を応援する塾』来夢塾を、宜しくお願い致します。

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